2012年3月11日日曜日

「新生活を始める」という行為が好き。

基本的に飽きっぽく、変化が好きなので、「新生活を始める」という行為が好きだ。久しぶりにのんびりした週末なので思い出話でも。

思えば大きな「新生活」を始めたのはこれまでに3回あった。大学入学、学生時代の引越し、そして就職。

大学の合格発表を実家のPCで確認してからの数日は、まず実家で大学からの案内を受け取り、コンビニで航空券代を入金し、初めての自分のPC(富士通のFMV BIBLO)を買い、ANAの夕方の便で上京した。一旦練馬の親戚の家に泊まり、翌朝、大学と学生寮のある八王子へ行った。寮は大学の敷地の中にあった。生まれて初めての引越しは、引越し業者ではなく、宅配便を使った。実家から事前に送っておいたたくさんのダンボールを寮で受け取り、古い汚い部屋に運び込んだ。その日の夕方には新宿のヨドバシカメラで掃除機とプリンターを買い、慣れない京王線に揺られて持ち帰った。寮にはインターネットが通っておらず、5分ほど歩いて大学構内の無線LANの飛んでいる建物に行っては、色々とその街のことを調べた。数日経つと北海道から母親が上京してきて、伯父と3人で電器屋さんに行き、冷蔵庫と炊飯器とオーブントースターを買ってもらった。このときの冷蔵庫と炊飯器は今でも使っている。もちろん掃除機も。あとは、「とりあえず無印でものを買おう」と決めていた。新宿のルミネに入っている無印良品で、洗面器を買った。母親と秋葉原の電気街に行って、テレビのアンテナ線を買ったりもした。PCにつないで使うTVチューナーも秋葉原のヨドバシカメラで買った。これは半年ほどで壊れた。大学は山を削って整備された土地にあって、一部は多摩の原生林が残されていた。桜並木がとにかく綺麗だった。やっぱり部屋ではインターネットが使えなかったので、ホットスポットを契約して、毎日モスバーガーに行っては閉店までコーヒーで粘っていた。毎日が不安で、毎日が楽しかった。

大学3年の春には寮を出なければいけなかった。2年生の1月くらいから部屋を探し始め、3月の頭には住む街を決めた。大学の最寄り駅からは3駅離れていて、1度だけその街のボーリング場に行ったことがあった街だ。鉄道系の不動産屋さんで物件を見つけ、その足で街を下見して、次の日には住むことを決めると不動産屋さんに告げた。引越しは3月の下旬だった。寮生時代は、洗濯機は寮の備品にあったので必要なかったが、新しいアパートには無かったので買わなければいけなかった。やっぱり新宿のヨドバシカメラまで行き、売り場で一番安かった洗濯機を買った。その5畳ワンルームのアパートは、駅から徒歩で5分のところにあった。まずは、どこに何があるのかを知らなければならなかった。Googleマップで近所の地図を見まくったのを覚えている。駅のすぐそばには西友があり、西友には無印良品が入っていて、引っ越してすぐに買い物に行った。まとめ買いしようと思ったものが品切れしていて、店員さんに次はいつ入荷するかを聞いたら、「もうしないと思います」とぶっきらぼうに答えられた。どういうことですかと聞くと、「ああいうことですから」と壁の掲示を指さされた。あと1週間で閉店するらしかった。寮には机が備品としてあったが、この新しい綺麗な部屋には無かったので用意しなければならなかった。新宿のルミネエストに入っていた千円均一で白いレコードボックスを2つ買って、小田急線に2駅揺られた街にあるホームセンターで白い板を買い、レコードボックスの上に載せて机の代わりにした。東京に出ている、高校時代の友達がテレビをくれるというので、電車を乗り継いで川崎までもらいに行った。友達には後日、赤坂で3,000円のランチをおごった。ちなみにこのテレビは去年の7月に映らなくなった。新宿の千円均一はよく通った。レコードボックスは全部で12個買った。カーテンもその店で買ったし、イスもラグもその店のものだ。アパートのすぐそばを小川が流れていて、そこの桜並木も好きだった。夜更かしした次の日の朝は、寝ずにその小川沿いを歩いて牛丼屋に行って、牛丼を食べて帰って寝るというのが日常だった。

就職のために、北海道に帰ってくることになった。友達と神保町でラーメンを食べていると、母親からメールが来た。会社から、配属先と寮が決まったという通知が届いたということだった。この時点では卒業はまだ確定していなかったが、帰省のため航空券だけは買っていた。3月10日に卒業の確定を確認し、翌11日、12時半に羽田を発つスカイマークに乗った。新千歳空港に着いたのは14時過ぎ。いま思えば、スカイマークだったのによく定刻に出発し、定刻に到着したものだ。迎えに来てくれていた親の車に乗り、空港を出た。まだ千歳市内を出ないくらいのうちに、大阪の親戚からメールが来た。「こっちはあまり揺れていません」。なんのことだろうと思った。一緒に車に乗っていた祖母が「何か大きな地震でもあったんだろうか」というので、ラジオを付けてみた。どのチャンネルも、同じニュースを流していた。信号待ちで車が止まったときにちょうど余震が来て、初めて事の大きさを知った。この帰省では1週間ほど実家にいたが、実家は一度も揺れなかった。ただ、テレビは毎日同じニュースを繰り返していた。この帰省中に、実家から1時間半ほどかけて車で札幌に行き、母親と立ち食いそばを食べてから職場に挨拶に行った。その足で寮も見学した。玄関を開けたとたんにタバコの匂いが立ち込めていた。壁は古く、ところどころはがれていた。

引越しと卒業式のために一旦東京に戻った。羽田から電車を3社乗り継いだが、どの車両も暖房が切れていて寒かった。部屋に戻ると、本棚の本が全て落ちていた。2年間暮らした小さな部屋はモノで溢れかえっていて、荷造りは前日から寝ずに行ったが終わらなかった。部屋を明け渡さなければならない日に、引越し業者と大家さんに手伝ってもらいながら、無理やりダンボールに荷物を詰め込んだ。その前の日には、よく行っていた近所の牛丼屋に行き、マクドナルドに行き、ファミレスに行き、その帰り道にちょっと泣いた。iPodで、銀杏BOYZの「東京」をずっとリピートして聴いていた。部屋を明け渡した日は、友達の部屋に泊めてもらった。翌日、練馬の親戚の家に移り、数日滞在した。この間に卒業証書を受け取りに大学に行ったり(卒業式は中止になった)、ゼミの追いコンに出たり、サークルの友人たちと食事に行ったりした。3月25日の昼に、ANAで北海道に帰った。4年ぶりの片道切符。

数日実家に居て、寮に引っ越した。荷物は、震災の影響でもしかしたら予定通りにつかないかもしれないとのことだったが、無事予定通り着いた。大学3年の春に買った洗濯機は、実家の近所の農家に譲ることにして、そのまま業者に預けた。ダンボール箱を押しのけて、床に寝っ転がって寝た。6畳一室。キッチンは無く、トイレ・風呂・洗面台は共有。学生時代の寮の風呂は0時から翌15時までお湯が出なかったが、この寮は24時間お湯が出るというところが気に入った。母親が何度も地元から札幌まで来てくれて、近所のニトリで机を買って一緒に運んだり、札幌駅の無印良品でベッドを予約したりした。札幌は予備校時代に通っていたし、高校時代にもよく遊びに来ていたので、どこに何があるのかはなんとなく知っていた。服が買いたければ大通に行けばいいし、家具が買いたければニトリに行けばいいことも、映画を観たければ札幌駅に行けばいいことも知っていた。4月、研修を終えて配属になってからしばらくは、17時ちょっと過ぎには会社を出ることが出来た。5月には、毎日地下鉄を途中で降りて、タリーズに寄ったり、行ったことのないエリアを散策したりした。狸小路7丁目が好きになったのもこの時期だ(もともと狸小路は好きだった)。



1時間以上かけて振り返ってみて思うのは、やっぱり「新生活を始める」という行為が好きだ。

僕のこれまでの「新生活」は、いつだって、希望と不安と喜びに満ちていた。落ち着いた日常には落ち着いた希望と、落ち着いた不安と、落ち着いた喜びがある。

けれど、この「新生活」におけるそれらは、それら自体が希望と不安と喜びを帯びているような気がする。わくわくしていること自体が不安で、不安を感じていること自体がうれしくて、新しい生活をしていく嬉しさ自体にわくわくした。

今日、近所のスーパーに行った帰り、花束を持って地下鉄の駅を出てくる女性を観た。大学の追いコンか何かだったんだろう。先週の日曜日にロフトに寄ったら、手帳フェアと弁当箱フェアが同時に開かれていた。

地面を固く覆っていた雪は溶け、アスファルトが顔を出してきている。もちろん札幌はまだまだ寒い。花粉症なんてどこ吹く風だ。昨日も吹雪だった。
それでも、春だ。僕の好きな春とは違うけれど、これがこの土地の春なんだ。希望と不安と喜びに満ちた、新生活がそこらじゅうで始まろうとしている。僕は次の異動までしばらくは「新生活を始める」ことは無いだろうけれど、たまにはこうやっていろんなことを思い出しながら、それでも前を向きなおして歩みを進めて行きたい。学校を卒業したみなさん、新しい学校に入学が決まっているみなさん、就職が決まっているみなさん、そして全ての「新生活を始める」みなさん、おめでとうございます。

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